IZURU KUMASAKA

熊坂 出

短編小説「さらばアンサツシャ」
全5回
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さらばアンサツシャ

 香はアサシンモンスターカードゲームをやった事がなかったので、健太に教わってカードゲームをやった。最初はルールが複雑に感じたけれど実際にやってみるとすぐに慣れて、そのカードゲームの面白さが分かって来た。けれども腑に落ちない設定が一つだけあった。それは、アサシンモンスターが死なないという設定。アサシンというのは暗殺者という意味なのに、アサシンモンスターはどんなに戦って傷ついても、気絶するだけで死なないのだ。そのことと関係があるかは分からないけど、とにかくアサシンモンスターカードゲームに香がのめりこむことはなかった。カードゲームをやりながら香は健太の盲腸のことを聞いてみることにした。
 盲腸の手術はとっくに終わっていて、後はおならが出るのを待つだけ。普通の人は手術をして3日目にはおならが出るのに、健太はもう五日目なのにおならが出ない。今日からご飯も普通に食べられるようになったのに、おならが出ない。のだそうだ。
「それで、末期ガンとか言ったの?」
「そうだよ。もうやめ! お前、弱い」
「あそ。じゃ、おしまい」
「だってよう? いくらやったところで、やっぱり大会に出られんし。3日後だし」
 ボサツの心。
「なんでそんなに大会に出たいの?」
「闘争本能だよ」
香は懐かしい言葉を聞いた。闘争本能。
「分かるかも」
「香に?」と健太は訝しむ。
「分かるよ」
 闘争本能は香の座右の銘だったから。香が自分の座右の銘を闘争本能と決めたのは、まだ内地に住んでいた頃、友達のユリがイジメを受けた時。

「だって、香、女じゃん」
「分かるって。バカにしないで」
「香ってさ、なんか普通の女子と違うよな。だけど優しいし」
「今日のテーマだから」
「香、俺のこと好きなんでしょ」
 は?
 香は健太の言葉は無視して言った。
「何とかして、大会に出る方法を考えてくるよ」
 すると健太が言った。
「それより、また来て」

 まだ外は明るかったけれど、4時になって香は病室を後にした。
 スミレは既に帰ってきていて、ダイニングキッチンのテーブルでノートパソコンを広げて、パタパタとキーボードを叩いていた。目は画面に向けられたまま「おかえり」とスミレが言う。「ただいま」
 爪を短く切った綺麗なスミレの指先を少しの間見つめ、香は手を洗いに洗面所へ向かう。
 香がまだ小学校2年生で生理なんてほど遠く先の話だった頃、スミレとよく一緒に麻布十番のスタバへ行った。スミレはスタバの二階にある大きなテーブルでノートパソコンを広げて仕事をして、香は図書館で借りた絵本を広げて読んだ。周りに子連れのママグループがいる時もあったけれど、香のように大人が座るテーブル席に一人で座って、本を広げて読書している子供は香以外にはいなかった。香の周りの大人達は大体が書類とノートパソコンを開いて仕事をしていた。
 スタバデビューした時、香は自分が大人の女性になった気がして、そしてきちんと大人の女性として振る舞えているかが気になって、そしてそしてそんな大人な自分が誇らしくて、超ドキドキして、絵本に全く集中できなかった。
 香は8歳になってもまだ絵本を読んでいた。スミレが28歳の時に初めて読んだサラミッダの絵本を、初めて読んだ8歳の暮れ、香は気がついたことがあった。それは、スミレがノートパソコンを叩く音がとても小さくて柔らかいこと。ノートパソコンに向かう母親がまるでピアニストみたいな学者に見えること。ちなみにスミレは学者ではなくて翻訳家。マックを開いているスーツ姿の大人達はスタバに大勢いたけれど、大体、皆、キーボードを嫌な音を立てて叩く。けれどスミレは、最小限の力の強さと動きで静かに叩く。同じ叩くなのに色々あるな、叩く以外にふさわしい言葉があるのかな、そんな事を香は思いながら、ガラガラガラガラぺっと大きな音を立てて、うがいを終えた。

 スミレと香は晩ご飯を外で食べる事にして、けんぱーのすば屋まで歩く。けんぱーのすば屋までは新しいアパートから大人の足で徒歩3分だった。でも二人で歩くと10分かかる。香のせいではなくてスミレのせい。スミレは歩くのがとても遅いから。東京を二人で歩いていた頃、東京の人達はスミレと香をどんどんどんどん抜かして行った。

 沖縄そばによもぎの葉を入れて食べるのが香は好きだけれど、けんぱーのすば屋にはよもぎの葉は置いていない。香はおそばを素のまま食べて、スミレはこーれーぐーすぅという、かすかに黄みがかったとても辛い液体をちょびっとだけ入れて、麺をすすった。
「どうすればアサシンモンスターの大会に出られるかな」
「出られないでしょ」
「でも約束しちゃったし」
「でも勝手に気がつくと思うよ」
「気がつくって?」
「健太にとって大切なことは、もっと別なところにあったって」
「え? どういうこと?」
「本当に大事なことは大会に出るとか出ないとかじゃなくて、もっと別なところにあったって気がつくってこと」
「ふーん」
「そうやって生きていかないと、人って生きていけないから」
「なんで?」
「そうやって人生を正当化していかないと、やってられなくなるの」
「なんで?」
「人生って理不尽だから」
「リフジンってなに?」
「辞書で調べなさい」

 夜、ベッドに横になって、香は「うううううおじいさん」の事を思った。
 あの時私はどうして怖くなったんだろう。
 おじいちゃんの体は病気に支配されかかっている。心のことは知らないけれど。とにかく、その病気が私に襲いかかってきてると私は感じた? だからおじいちゃんの顔をよく見ることができなかった? もしおじいちゃんの顔をじっと見ていたら、きっと私は「死ぬこと」を想像した。ひとりぼっち以下の、なーんにもなしになった私。私をなくした私。なんちゃって。
 でも、だから怖かったんだ。

 翌朝、香は一計を案じた。健太が大会に出られるようにするためのアイデアを頭につめて、学校帰りに病院へ行った。
 香のアイデアは、嘘をつくことだった。

続く

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