熊坂 出
結局、健太のおならは9日経っても出て来なかった。それでも医者は大丈夫と一点張りで、健太の両親も姉も医者の言葉に素直に安心しきっていた。その後も健太は「俺はマッキガンなの?」と不安を姉に吐露し、姉に怒られた。けれど、それでも健太はその100倍の量の不安を自分の心の中に隠していた。その不安の行き着く先はいつも「死ぬこと」だった。
 香が健太の病室に向かって病院の廊下を歩いていると、健太の病室からスーツの大人が出てくるところだった。病室の入口でマリが平身低頭していた。大人はマリに笑顔で「気になさらないでください。それじゃお大事に」と言って立ち去って行く。 
                                   香は本能的に自分の罪を感じ取る。何かまずいことになったんだ。 
                                   香は病室には入らないで、ひとまず、音で中の様子を伺うことにした。 
                                   香は入り口脇の壁に立って、全身を耳にした。
                                   すると、マリの声。 
                                  「なんね、この手紙は?!」 
                                  「だって俺はまっきがんだから!」 
                                  「やぁいい加減にしれよ」 
                                  「じゃなんでまた入院延びんの?」 
                                  「屁が出ないからさ!」 
                                  「だから、ガンだから出ないんだろうが!」 
                                   バチン! 
                                   ビンタの音が鳴った。 
                                     あたし恥ずかしかったけど、先生に聞いたのよ? ガンじゃないですよねって。そしたら先生大笑いして、100パーセントないって。チョーヘーソクの可能性もほとんどないって。まあ、待ちましょうって言われた。健太はよく動いているし、大丈夫ですって。 
                                  「ほんと?」 
                                  「ほんとよ。それに、多分手術したところが痛いから、お腹に力入れることに躊躇しちゃうんじゃないかって」 
                                  「…そっか」 
                                  「そっかじゃないだろお前」 
                                  「なに怒ってんの?」 
                                  「ほんとにガンで苦しんでる人に失礼だと思わないの? アサシンモンスターの会社の人、本気で心配してわざわざ来てくれたんだよ? しかも、会社に黙ってあの人来てくれたんだよ? どういうことか分かる? 内地の会社は、自分1人の考えでそういうことしたら首になるんだよ。あの人東京からわざわざ来てくれたんだよ? 会社休んでジバラで飛行機で来てくれたんだよ? 自分がやったことがどういうことかわかってる?」 
                                   しばらく、沈黙の音。 
                                   香は、うああああが聞きたくなった。 
                                  「頭冷やせ」 
                                   マリが病室から出てきて、香と目が合った。 
                                   香は頭を下げたが、マリは香を無視して立ち去って行った。 
「香のせいだかんな!」 
                                  「健太だって良いアイデアだって言ったじゃんかよ」 
                                  「でも言い出したのは香だし」 
                                  「自分で手紙書いたじゃん」 
                                   すると健太はベッドから身を起こして窓を開け、アサシンモンスターカードを全て窓から投げ捨てた。香はこの甘ったれ小僧に殴りかかりたくなったが、言葉を思い出した。 
                                   ボサツの心。 
                                   菩薩の心。 
                                   菩薩。 
                                   香は静かに呼吸をして自分の中心を取り戻す。 
                                   そして香は健太の手を引っ張って連れ出そうとする。 
                                   拾いに行くよ、と香は言うが、健太は拒絶する。 
                                   香はこちらにあるバカダネと向こうにあるバカダネを見比べて言った。 
                                   あの病室の人だってもしかしたら同じかもしれないじゃん。 
                                   は? 
                                   アサシンモンスターの大会に出たかったけど、出られなかったのかもしれないじゃん。 
                                   健太の顔が変わった。 
                                   けれども、健太はもう引っ込みがつかない。 
香は散らばっているカードを拾い集める。カードの内の何枚かは二階の病室の柵に引っかかっていたり、病棟の下にある駐輪所の屋根の上に落ちたりしていて、全部を拾い集めることはできない。ふと見上げると、健太が病室からこちらを見ている。健太はすぐに顔を引っ込めた。
 あらかたカードを拾い集めると、香は健太の病棟の向かいの病棟に入った。あのバカダネの病室の主に会うために。 
                                   バカダネの病室も、健太の病室と同じ6人部屋だった。入り口の表札に6人の名前が書いてあるけれど、どの名前がバカダネの主かは分からない。香は中に入りたかったけれど、入れなかった。なんだかとても失礼な気がしたから。窓際に飾られているはずのバカダネも入り口からだと見ることができない。しばらくの間そこに突っ立っていると、看護師に話しかけられた。 
                                  「こんにちは」 
                                  「こんにちは」 
                                  「何してるの? お見舞い?」 
                                  「いえ。あの、聞きたいことがあるんですけど」 
                                  「うん?」 
 香は健太の病室に戻って来ると、拾い集めたカードを健太に手渡そうとした。けれども健太が受け取らないので、窓際のバカダネの隣にカードを置いた。 
                                   そして健太の顔をじっと見て、香は言おうと思う。 
                                   けれども、なかなか言葉が出て来ない。 
                                  「なんだよ」 
                                   香は心の中から言葉を吐き出すことができない。とても失礼な気がするから。 
                                  「なんだよ?」 
                                   香は言った。 
                                  「あそこの病室の人達は重い病気の人達だって。意識不明の人とか末期癌とかだって」 
                                   健太は黙り込んだ。 
                                   香は健太をじっと見ている。 
                                  「健太と違って、重い病気の人達ばかりだって」 
                                   健太は、香の言葉をけなすようにフッと笑った後、向かいの病室のバカダネを見た。 
                                   健太は、そのベッドに横たわっているはずの人を想像した。 
                                   男なのか女なのかおばあちゃんなのか小学生なのか。 
                                   健太はふと思った。 
                                   なんで、俺、会いにいかなかったんだろう。 
                                  「あいつは来年の大会に出られるかな?」 
                                   香も向かいのバカダネを見た。 
                                  「大会なんてどうでもいいか」 
                                   香は何も答えない。 
                                  「神様なんていなくてもいいか」と健太が言う。 
                                  「神様なんていなくてもいい」と香が言う。 
                                  「俺には人生があるから」 
                                   健太はそう言うと、窓際に置かれたアサシンモンスターカードに手を伸ばした。 
                                   健太は、自分の人生を取り戻した。 
                                  「小2みたいにまきちらして悪かった」 
                                  「いいって」 
                                   二人は、やろう、やろうと言って、カードゲームの練習を始めた。 
                                   練習と言っても遊びだけれど。 
 翌日、健太が起床した。 
                                   健太はカーテンを開けて、向かいの病室に目をやる。 
                                   健太は瞬きする、パチパチ…パチパチと。 
                                   頭が真っ白になって、そして、涙が出た。
続く