熊坂 出
 香は火曜日の五時間目を終えて、その足で病院へ向かった。 
 香が病室へ入ると、健太は眠っていた。 
 香はベッドの脇のパイプ椅子に腰をおろして、窓の外を見た。 
 向かいの病棟の病室の、いつも半分開いていたカーテンが全部開いている。 
   窓際にあったバカダネの姿がない。 
 カーテンのベールを剥がされ、窓の外に丸見えになっている部屋の窓際のベッドには、枕も毛布もシーツもマットもない。骨となったベッドが置いてあるだけ。 
                                   バカダネの主は、もうそこにはいなかった。 
「香は入院したことあるか?」 
                                   見ると、健太は目を開けていた。 
入院ってこんなに嫌な気持ちになるとは思わなかった。いっつも、この匂いがして、死ぬことばっかり考える。うううううって言ってたおじい、退院したって言うのは嘘。本当は死んじゃったんだ。マッキガンだったんだって。俺は悪いアンサツシャに殺されるからお前があいつと戦って殺してくれって、おじいは俺に小声で言った。手術が終わってこの病室で目が覚めたら、そう言われた。俺、その時、ぐったりしてて体が動かなかったし、まだ子供なのに。あのおじい、ここに来て、小声で確かにそう言った。目が黄色くて気持ち悪かった。手はシミみたいなのでいっぱいだった。それで俺もガンなんじゃないかと思ったんだ。単なる盲腸だったら、マッキガンの人と同じ病室にいないでしょ? 俺は死ぬんだと思った。それで気がついちゃったんだ。そうか、絶対死ぬんだって。俺はいつか絶対死ぬんだって。夜が怖かった。家でも夜は怖いのに病院だぜ? それでアサシンモンスターのことを思った。アサシンモンスターはどんなに戦いで傷ついても、死なないから。
「健太は、屁が出れば退院できんでしょ?」 
                                  「そうだよ」 
                                  「こんな話があるの。シンナーをやめられない男の子がいた。その男の子はお母さんが嫌いだった。お前なんかに俺の気持ちが分かるかよ、って。それでお母さんはこう言った。分からないわ。だから分かるようにお母さんもシンナーを吸ってみる。お母さんは男の子の目の前でシンナーを吸った。それで男の子はシンナーをやめた」 
                                  「俺、そういう話嫌い。ぎぜんでしょ、それ」 
                                  「ぎぜんじゃないよ。あたし、誰かのためにシンナーなんて吸えない」 
                                  「で、どうすんの? お前も入院するの? 馬鹿じゃないの」 
                                  「違うよ」 
                                  「じゃ、どうすんだよ!」 
                                   香はパイプ椅子から立ち上がると、健太に背を向けた。 
                                  「なんだよ」 
                                   香はそのまま前屈みになる。 
                                   そして、おならをした。 
                                   健太は笑ってしまった。 
                                  「お前が屁してどうすんだよ!」 
                                   香は顔を真赤にした。 
                                  「うわ、くせ! くせーくっさ」 
                                   香は泣きそうになった。わたし、一体、何やってるんだろう? 
                                   香は窓を開けた。 
 健太はもう笑っていなくて、その臭さに怒っている。 
                                  「おかしいだろ、お前。なんでおならなんかするば! 何考えてる女のくせに! ほんとによ」 
                                   健太はそう怒りながら、泣き出した。 
                                   泣いているけれど、泣くもんか、という顔をしている。 
                                   それで、香も泣き出してしまった。 
                                   2人で大泣きした。 
「でも、サンキュー」 
                                   健太が言った。 
                                  「おならされてサンキューって言ったのはこの世で俺が最初かもね」 
                                   香は無意識の内に、健太の目から健太の真赤な唇に視線を移してしまい、恥ずかしくなって向かいの病室を見た。 
香がまだ絵本しか知らなかった頃、よく思ったことがある。雪女とか鶴の恩返しとか、悲しい結末の絵本を読み返す度に香が思ったこと。
   結末が変わってるんじゃないかなあ。木こりのおじさんは雪女と約束した通り、雪女の話はしない。おばあちゃんは女の人と約束した通り、夜、女の人の部屋を見ない。皆、約束を守って、仲良く幸せに暮らすんじゃないかなあ。 
でも何度読み返しても、結末は変わらなかった。
 そしてやっぱり、あの窓際にバカダネはいない。泣きそうになって、香は呪文を思い出す。南青山に住んでいた時に友達のユリが教えてくれた言葉。 
                                   泣くのは嫌だ、笑っちゃおう、進め。 
「また来るよ」 
                                  「おう。あ、香」 
                                  「なに?」 
                                  「もう弱音はくのやめるよ、あいつのためにも」 
                                   香と健太は窓から身を乗り出して、暑い日差しの中で、風を顔に受けた。 
 香は健太の病室を後にした。 
                                   病院の玄関まで行ったのだけれども、健太が気になって、香はまた戻って来てしまった。病室の中の健太は窓辺に突っ立って、あの整理整頓された無人のベッドを見ている。健太が今笑っているのか、泣いているのかは香には分からない。 
                                   でもやっぱり泣いているのかな。 
                                    
                                   と、誰かが廊下の向こうからやって来る。香は息をのんだ。 
                                   そして香は歩き出し、駆け足になり、病院から出る。 
「失礼します」 
                                   大人の女性の声に、健太が振り返る。香の予想に反して、健太はもう泣いていなかった。 
                                  「ほら、早く」 
                                   大人の女性が、隣に連れ立った男の子を促す。男の子は健太より一学年か二学年下だ。 
                                  「そのバカダネ、向こうからいっつも見てたッス」 
                                   男の子は、あのバカダネのぬいぐるみを持っていた。 
                                   健太は息をのんだ。 
                                  「これ、お見舞いッス。退院したらカード交換しようッス」 
                                   と言って、男の子はアサシンモンスターカードを取り出す。 
香は一人、チャリに乗って、走り出す。
了