IZURU KUMASAKA

熊坂 出

短編小説「羽ばたくシガイ」  重松清さんからの推薦文はこちら
全5回
  • 第1回
  • 第2回
  • 第3回
  • 第4回
  • 第5回
羽ばたくシガイ

 落ち葉って取り返しのつかない感じがする、とスミレが言った。
 香はその時のことをよく覚えている。香の母親のスミレが見ていた路地の上の落ち葉や、そんなに寒くなかったことや、回りに見知らぬ大人達がたくさんいて皆しゃがみこんでいたことや、近所の人が振舞ってくれた梨を皆で食べたこと。香は8歳で東京は10月だった。今はもう香は11歳で5月で夜になると蚊が飛んできて気温は28度で、そして沖縄。
 土の上に、蝶のシガイが落ちている。
 一体、誰の落としものと香は思ったけれど、誰かが落としたんじゃなくて蝶は死んで自分から落ちたのか猫に殺されて落ちたのかどっちかだと思い直した。
「何、さぼってるばっ、早くやるよ!」
と言ってリオがうさぎ小屋から出てきた、うさぎのウンコまみれの藁を両手に抱えて。
 リオは昨日とうとう11歳になった。リオは出会った時から男前な女の子だったけれど、10歳から11歳になって、ますます男前になったと香は思う。たとえば、走り方。前も速かったけどもっと女っぽかった。今はもっと、女っぽいとか男っぽいとかを超越した走り方になっている。担任の仲村渠なかんだかりがリオの走り方を褒めたことがあって、その時、香はすっごい気分が良くなった。ほらねって。今香の目の前で仁王立ちしているリオは、島草履から突き出た親指の先っぽから、髪の毛をアップにしてむき出しになった広いおでこまでこんがり焼けていて、まるで土人だ。土人っていうのは土の人って書くんだと、香は今、自宅にあるパソコンを打って初めて知った。そして辞書で調べて、土人は差別用語だということも知った。でも香にとっての土人はもっとカタカナっぽいし、土の人って書くと差別用語というより詩人の言葉みたいで、なんか気取っててイヤだと香は思った。
「死んでるよね?」
と真琴が言う。真琴は三日前から右目に眼帯をかけていて、ちょっと怖いと香は思う。物もらいができたと香は噂で聞いて知っている。香は出会った時から真琴が苦手で、生理的に駄目。
「どっからどう見ても100パーセント死んでるんじゃん」
と、花子が言った。香は花子とある出来事があって仲良しになった。それはまた別の機会に。
 香は、蝶の羽のところを指先でつんつんとつついてみた。鱗粉りんぷんが人差し指のお腹にくっつく。親指で鱗粉をこすり取ろうとしたら、親指にもくっついた。
「でーじ汚いっ」と、真琴が言った。 「汚くないよ、蟻はこれ食べるんだよ」と香。
「蟻って、全部ナマのまま食べるんでしょ?」とリオ。
「あたりまえやっし」と花子と理子。リオが大笑いする。
 香は蝶のシガイを親指と人差し指でつまみあげ、そして真琴の目の前に持って行く。
「うわああああ!!!」と真琴と花子。
「そんなに怖くないさ、蝶だよ?」と理子が諭す。理子は優ちゃんに似ていると香は思う。優ちゃんというのは、モデルの山田優のこと。
「やらんで、嫌がってるさ」
と、花子が香を責めた。
 香は段々面白くなってきて、両手で作ったお椀に蝶をいれて、真琴を追いかけた。そしたら、ドン! 背中に衝撃を受けて香は顔から土に落ちた。リオの飛び蹴りをくらったのだ。むき出しになった背中の上から皆の拍手が降って来るのを香は感じた。香は倒れる時、反射的に腕を前に伸ばしていて、見ると、蝶のシガイは香の手のひらの中で綺麗なままだった。

 リオと2人、学校からの帰り道、路地。
 路地のことを地元の言葉でスージグヮーというのだとスミレが言っていたけれど、路地をスージグヮーと呼ぶ子に香はまだ会ったことがない。香は、そんな方言嘘なんじゃないかと思って島仲のバアバに真相を聞いたら、本当さ、と笑われた。でも、路地は結局路地のことだと香は思った。きっとロシアにも路地はあってロシアの呼び方があるだろうけれど、でも要するにそれも路地だと香は思った。この辺りには、亀の甲羅の形をした大きなお墓がたくさんある。それをカミヌクーバカと言うのだと知ったのは、今から3年前、香が東京都港区南青山から沖縄県那覇市識名に引っ越してきたその日の夜のこと。でもお墓をカミヌクーバカと言う子に香はまだ会ったことがなくて、よくてもせいぜいカメコウバカ。皆、普通にオハカって言う。引っ越してきた頃は香もまだ土人じゃなかった。お肌は真っ白だったし、服もメゾピアノだったし、島草履なんか知らなかったし、沖縄の匂いはガイコクの匂いみたいだと感じていた。でも今はもう沖縄はガイコクじゃない。スミレが今度、識名から北中城に引っ越そうと言っている。もしそうなったら私はますます土人になって取り返しがつかなくなる、と香は思う。外側が土人になると、内側も土人になる。でも、思考回路はまだまだトカイ的だってお母さんはよく言うから、私はまだまだ土人でもないのかな。香がそんなことを思っていると、リオがさっきの香の行動を咎めた。
「ああいうのやめとけ、小3じゃないんだからさあ」
「だって真琴ってなんとなくムカつく」
「そういう問題じゃない」
 じゃあどういう問題なのと香が聞くと、リオは少し考えてから言った。
「品の問題」
「でもあたし、ご飯食べる時、音立てないし」
「はいはいはいはい」
 香には4年生の時から同じクラスのイーちゃんという韓国人の友達がいて、香は基本的にイーちゃんのことが大好きだけれど、イーちゃんがいつもものすごい音を立ててご飯を食べるのは受け入れられない。音を立てないで食べた方がいいよ、と香はイーちゃんにアドバイスしたいけれど、結局できていない。もう1年以上もできていない。香は「イーちゃんの食べ方気にならない?」とリオに聞いたことがある。でもその時のリオの返事は、「全然全く気にならない」だった。
 香とリオが曲がり角を曲がると、10メートル位先のアカギの樹の下でガキンチョ達が集まっていた。細かい砂利をまぶした古いアスファルトの上をリオが走って行く。背の低いくたびれたブロック塀の上にヤクザみたいな黒猫がいる。リオの背中を少し鑑賞してから、香も走りだした。
 4人の男の子と小さい女の子が、見るからに内地出身の男の子を取り囲んでいる。ギモー、ほんと下手っぴだな、ヘンタイ、だの言われている男の子は、あぐらをかいてジャポニカの自由帳を開いて何か描いていた。男の子は多分4年生だと香は思った。リオと香は、輪の中に入った。
「何書いてるの?」とリオが聞く。
「見りゃ分かるだろ。スケッチだよ。シノ」と男の子が答えた。
「シノ?」
 男の子は溜息をついて言った。しのスケッチ。しぬのしだよ。死。分かる? このバカ。死をスケッチしてるんだよ。
 見ると、男の子の前に蛾のシガイが置いてある。はっきり言ってスケッチは下手だと香は思ったけれど、香はその絵にセンスを感じた。たとえば輪郭線が太くて、スッとひと筆で書いていて、気持ちがいい。全然実物と形が違うけど、そんなの関係ねえっていう感じで、とても男前だと香は思った。
「なんでそんなの描いてるば?」とリオが聞く。
「本当の生を描くためには、本当の死を描かなきゃいけない」とスケッチしながら男の子は答えた。リオが香を見る。そして節操のない変顔をした。こういうところがリオは可愛いのにもったいないとうちのお母さんはよく言うけれど、でもこういうリオが私は好っきやねん、と香は思う。
「本当の死なんて自分が死ななきゃ分かんないじゃん。誰にも分かんないよ」
 香が言うと、男の子は香を睨んだ。その顔があまりにも可愛げがなくて香は笑ってしまった。
 …あれ? コイツ誰かに似てる。誰だっけ。
「オレは、手塚治虫の生まれ変わりだから分かるんだよ」
 ―手塚治虫。
「こいつ、俊太って言ってさ、内地から来たんだけどさ、むかつくばーよ」
「先週まで、お前、アラーキーの生まれ変わりだっていってたやっし」
「難しいことばっかり言う。かっこつけて」
「アラーキーって何ね」とリオが香に聞く。香も知らない。
「エロい写真撮ってるじじいだよな!」と俊太の耳元で大声で言うガキンチョ。
「ヘンタイ」と女の子のガキンチョ。
「エロスとタナトスだ」と俊太が言った。
 俊太は多分エロスとタナトスの言葉の意味を知ってると香は思った。こいつ、分かってて言ってる。でも私はタナトスが分からない。エロスはエロいことでしょ。私もリオももう生理が来ている。香はそんなことを思った。でも2人は生理の話はしない。
「何かっこつけてる、バカ」
「めーごーさーされるよ」
「もういいよ行こうぜ」
「へんたい」
 大体そんなことを言って、ガキンチョ達は行ってしまった。香達は8人から3人になった。
 なんとでもいえガキめ、と俊太が呟く。
 香みたい、とリオが言う。は? どこが? 何かにハンパツしてる感じが。
 さっきの子供達は遠くで次の遊びを始めてる。俊太に目線を戻して香は言った。
「手塚治虫って火の鳥でしょ」
 俊太が香を見た。
「お前その年で手塚治虫なんてよく知ってんな」
「図書館で読んだ」
「あたしもブラックジャック一巻読んだよ!」とリオ。
 お前ら文化度たけーじゃん、見なおした、と俊太が言った。俺は、手塚俊太。お前ら、なんて名前。自分は、崎濱リオ。私は、谷川香。

 香達は児童館に向かって歩きながらおしゃべりパート2に突入した。俊太は親が働いていて夜まで一人だと言う。ここでは共働きはフツウだけど皆兄弟が多いから、一人っ子はフツウじゃない。だから俊太はトクシュだ。同じく一人っ子の香もトクシュな部類に入る。南青山に住んでいた頃、香の周りでは一人っ子はフツウだった。自分は変わらないのに場所や時間が変わるとトクベツになったりフツウになったりするのは本当に不思議だと香は思う。香は向うの友達を思い出す。向う、内地、東京、南青山。向うでユリやサワはきっと元気でやっている。LINEでつながってて今でも友達。LINEと言えば香が通っている識菜花小では皆カカオトークっていうのをやっていて、だから香はLINEとカカオトークを使っている。内地から引っ越してきた子はけっこう多い。だから、内地から来たというだけではトクシュとは言えない。イーちゃんみたいに韓国人だったりする子やお父さんがブラジル人だったりアフリカ人だったりする子も1学年に3人はいるし、その子達のこともあんまりトクシュだとは香もリオも思ってない。俊太が自分は母子家庭だと話す。でも、ここでは片親もあんまりトクシュじゃない。でもでも南青山でも片親はトクシュでもなかった、と香は思い出しながら、俊太とリオとおしゃべりを続けた。

「大変だね、俊太のところも」とリオがちらっと香を見て言った。香はリオを見ない。余計なこと言わなくていいからね、と香は思った。
「別に。何事も慣れだよ慣れ」と俊太が言う。
「でもさ、児童館に夜までいて飽きないの?」とリオが言う。
「飽きない。ガキ相手に遊ぶよか楽しい。高校生とか大学生とかもいるし」
「あっなんか分かる! うちもダンススクール面白いし」
「そうなの?」と香。
「面白いよ。高校生とかダンス超うまいし」とリオ。
 あたしもやろうかな、と香の口から自然に言葉が出た。リオが吃驚して香を見る。やろうマジで! リオの嬉しそうな顔を見て、香は上から目線を感じてムカついてしまった。

 お前、人間の死体見たことあるか? 

 え?

 俊太が香とリオを見ている。
「お前ら、人間の死体、見たことあるか?」
「は?」とリオが言った。
「お前ら、人間の死体、見たことあるのかって聞いてんだよ」
「なに急に意味わからんこといってる?」
「なんで変なんだよ、俺達皆いつか死ぬじゃん」
「そりゃそうだけど」
「で、見たことあんのかよ」
 リオが香を見た。香とリオは同時に大きな声で言った。
「ない」
 俊太が勝ち誇ったように笑う。
 は? なんで勝ち誇るの? 意味分かんないんですけど。
「俊太はあるの」と香が聞くと、俊太は「あるよ」と答えた。
「嘘つけ」と香が言う。香は、自然と不自然な言い方になってしまった。
「ほんとだよ」と俊太が言う。自然な言い方だった。
「いつどこで何時何分地球が何回回った日どのようにして?」と香が聞く。
 けれども、俊太は答えない。
「ほらみろ」
「じゃあ、今度の日曜日見せてやるよ」
「何を?」
「死体だよ」
 リオがまた香を見る。香はリオを見ない。
「行くか?」
「一生行かんし」と、リオが言った。香はリオを見た。
「意気地なし」と俊太はリオに言った。その後、「日曜日の朝10時に、那覇中央病院の前、長袖シャツを持ってこい」と俊太が香に言った。
 3人は、もうとっくに児童館に着いていた。

続く

© IZURU KUMASAKA All Rights Reserved.