IZURU KUMASAKA

熊坂 出

短編小説「羽ばたくシガイ」  重松清さんからの推薦文はこちら
全5回
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羽ばたくシガイ

 香は俊太を連れて、来た道を戻る。急な坂道を落ちて行くみたいにチャリで走って、ファミリーマートの駐車場を右手に見て黒丸宗通りに入り、ゆるやかな坂道を下ってゆく。そうして金城酒店にたどりつく。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
 香はスミレのお使いでたまにこの店にやって来る。醤油とかみりんとか米酢とかを買いに来る。スミレは一年に一度、サントリーの21HIBIKIというお酒をここで買う。こっちに来て買った21HIBIKIは2本だ。21HIBIKIには大きいものと小さいものがあって、スミレが買うのは小さい方だ。一年以上かけてスミレは小さい方の21HIBIKIを飲み干す。あんまりちょっとずつしか飲まないからいつまで経ってもなくならないんじゃないかと香は思っていたけれど、ちゃんとゆっくり少しずつ21HIBIKIは無くなってゆく。香は心配になって「腐ったりしてお腹こわすんじゃないの」と聞いたことがあって、スミレを笑わせた。スミレは南青山にいた頃は、クロード・クルトワとかアレクサンドル・バンとか言う自然派ワインを飲んでいたけれど、自然派ワインは沖縄では手軽に手に入らない、とスミレは言う。ネットで買えばいいじゃんと香が言うと、「沖縄とワインって全然全く合わないと私は思う」とスミレは言った。「それにワインを一緒に飲む友達もこっちにはまだいないし、一人じゃ飲みきれないし。これだったら一人でいいし、チキアゲにもあうしね」チキアゲというのは香とスミレの大好物でサツマアゲのこと。サツマアゲはもともとチキアゲで鹿児島が沖縄から盗んだと、香は島仲のバアバから聞いたことがある。
「お前、どうするつもりだよ」と俊太が言った。
 香は、自分の小さなお財布の中身を確認しながら、お酒を物色する。香はすぐに21HIBIKIを見つけた。そしてキョーガクの事実を知った。お母さんが飲んでる21HIBIKIは、あんなにちっさいのに10000円!

 酒屋を出て路地に入って石畳の階段を上ってブロック塀とブロック塀の間の狭い路地を通って、空き地に出る。香は空き地にしゃがみこんで、さっき買ったものをビニール袋から取り出して、俊太の前に置く。
「どうすんだよ、これ」
「飲むんだよ」
 俊太は香の目論みが既に分かっていたみたいで、すぐに言った。
「嫌だよ」
 けれど、声はちょっと震えている。
「なんで」
「嫌だ」
「お父さんとしゃべりたかったって言ってたじゃん」
「俺はあいつみたいになりたくない」
「お父さんの気持ちが分かるかもしれない」
 それきり俊太は黙り込んだ。
 香が買ったのは「蔵の素」というお酒だった。俊太がそっぽを向いた。三毛猫がブロック塀の上を歩いている。端っこまで行くとそこで猫座りをして香たちに背を向けた。俊太が視線を猫の背中からお酒に戻して、お酒を左手で押さえて右手で蓋をクルックルッと回し始める。蓋を開けると瓶をそのまま持ち上げて俊太は鷹みたいな形をした大人っぽい鼻を瓶の口に近づけた。俊太の鼻は、俊太の外見の中で唯一大人っぽく感じると香は思った。
「くっせー!!」
 香は笑った。
「不良ってすげーな」
「だったら、俊太も飲むから俊太もすごいってことになるよ。よかったねったらよかったね」
「お前、飲めるかこれ」
「無理」
「ほらみろ」
「あたしは飲む必要ないッス。飲まなきゃならねーのはおめーッス」
 俊太はじっと瓶の中のお酒を覗きこむ。そして瓶についているラベルを読み上げた。リョウリシュ。料理酒。
「お前、これ、料理酒じゃねーかよ」
 だからミツカン料理酒の隣にあったのか、と香は悟った。
「飲めるかよ、こんなの」と、俊太は言った。
「分かったよ、一緒に飲むから」と、香は言った。

 俊太と香は、路地から黒丸宗通りに出て、上り坂を延々と歩いていく。俊太の手にはチャリのハンドルと料理酒の瓶が握られていて、香も俊太も少し臭い。チャリを引いて縦一列になって2人で歩いている。香の前を俊太が歩いている。俊太の背中は小さい。でも、多分、私の背中も小さい、と香は思う。香はまだ自分の背中を見たことがない。
 南青山に住んでいた頃、一度だけスミレが泥酔して帰って来たことがある。母親が怖くて近寄れなくて、香は初めて部屋に鍵をかけた。香の心配は徒労に終わってスミレは香の部屋に入ろうともしなかった。でももしかしたら、お母さんは私の部屋に入りたかったけれどやめたのかもしれないと、香は思い直した。
 香と俊太は交差点で立ち止まった。
「じゃ」
「じゃ」
「縁があったらまたあのスージグヮーで会おう」
「俊太」
「なに?」
「お父さんの顔、消去したほうがいいと思う」
 俊太が香を見る。
 香も俊太を見る。
 俊太が根負けして、目を一瞬逸らした。
「なんでだよ」
「お父さん、天国に行けない気がする」
 俊太は黙った。
 香も黙った。
 信号が青に変わって、停まっていた自動車が動き出す。でも香達は動かない。
 俊太がポケットから携帯電話を取り出して、香に差し出した。
「お前が消して」と俊太が言った。
 そんな。
「困るよ」
「頼む」
 本当に困る。大体、自分で消した方がいいと思う。
「俺、もう死体を見ようとは思わないから」
 香はふと、俊太はもしかしたら今までも何度もお父さんの顔を消去しようとしたのかもしれないと思った。香は急に自分がとても恥ずかしくなった。
 自分では消せないのかもしれない。俊太にとってこれは写メだけど写メじゃないのかもしれない。沖縄の路地とロシアの路地と南青山の路地は、全部全然違うのかもしれない。
「じゃあ、あたしも」
 と、香はポケットからグチャグチャになった折り紙を取り出した。折鶴。リオが持たせてくれたもの。
「ゴミ?」
「お守りだよ」
 香と俊太は、携帯電話と鶴を交換した。
 と、その時。

 爆音が鳴り響いた。

 香の前方で、俊太の後ろ。
 俊太が振りかえった。香達は黒丸宗通りとファミリーマート識名三丁目店に通じる細い道の分岐点にいて、爆音は黒丸宗通りのもうちょっと先にあるトンネルの方から聞こえた。
 「事故だ!」
 中学生の大声。子供達が走って行く。黒丸宗通りはトンネルの手前で曲がっていて、ここからでは事故現場は見えない。また別の小学生達が走って行く。香達を通り過ぎる。「事故だってよ」「死んだ?」
 俊太が香を見た。俊太の目はまた淀んでいた。淀んでいるように感じるのは香の勝手かもしれない。俊太がチャリを放り出して走りだす。香もチャリを放り出す。俊太の手を握って止める。香は首をぶんぶんと左右に振った。でも、俊太は言った。
 ただ、俺は。
 香が言い返す。
 見たところでどうにもならないじゃん。
 俊太が言った。
 ごめん。
 手の力が抜けた。俊太は香の手を振り払った。俊太の背中が走りだす。小さな俊太の背中がどんどん遠くなる。また香は後悔する。
 行ったら友達やめるよ。
 俊太の背中には届かない。
 この携帯壊すよ。
 俊太がこっちを見ずに手を振った。
 ゆるす。

 香はもう何も言えなかった。俊太が見えなくなった。
 泣くのは嫌だ、笑っちゃおう、進め。
 いつだったか、ユリが教えてくれた呪文を香は唱えた。

 アパートの前で、香は俊太の携帯電話を開いている。画面には俊太の父親の死顔が映っている。眠っているみたいだと思ったけど、一度死に顔だと分かると、もう死んだ顔にしか見えなくなるから不思議だ。顔色も最初に見た時より黄緑色っぽい。白いシーツに白い枕の上の俊太のお父さんの顔。俊太に似ているのかどうかは香にはよく分からない。香はメニューから「削除」を選ぶ。
 「本当に削除しますか」
 と、メッセージが出た。
 香は青紫がかった空を見上げて息を吸い込むと、心の中でお祈りをした。
 俊太のことをこれからも見守っていてください。
 そして削除した。沖縄の空は広い。

 スミレがアパートから出て来た。
「おかえり」
「どこ行くの?」
「金城酒店。お酒切らしちゃったの」
 ―まずい。
「あたしも行く」
「じゃ、香一人で行って来て。あたし、夕ご飯の続きやるから」
「分かった」
 スミレがお財布から千円札を一枚取り出す。
「お母さん」
「なに?」
「やっぱり一緒に行く」
「ええ? やだよ」
 お母さんはいつか死んじゃうからと私が言ったら、お母さんは勝手に殺すなと言うだろう、と香は思う。香はスミレの手をつないだ。
「キモ! あんた3歳か」
「3歳でけっこう」
 スージグヮーにもう100年前から咲いてるんじゃないかと思うようなランタナの花に、蝶がとまっている。黒い羽根に青緑色の平行四辺形がたくさん並んで筋を作っている。俊太の携帯電話はウサギ小屋の裏にお墓を作って、そこに埋めよう。香はそう思った。

 放課後がまたやって来た。
 香は、真琴とリオと理子と花子とウサギ小屋の掃除をする。香は両手を広げて、胸から真琴の背中にぶち当たってみた。
「蝶アタック!」
「アガ! は? なに?!」
 真琴が竹箒でやり返してきた。香は両手を広げたまま応戦する。
「二人ともやんな!!!」とリオが言う。
「リオちゃんいいよ、早く掃除やっちゃおう」と理子が言う。
「掃除にならんし」と花子が言う。
 香と真琴は止めない。ウサギは小屋から出てこない。

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