IZURU KUMASAKA

熊坂 出

短編小説「羽ばたくシガイ」  重松清さんからの推薦文はこちら
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羽ばたくシガイ

 俊太が電気をつける。ブルーベリーに似たつーんとした薬の臭いがする。そしてとても寒い。香は長袖シャツの意味が分かった。香は腰に巻いていた長袖シャツに両腕を通して、ボタンもとめた。死体安置所の広さは香が通っている識菜花小学校の教室の3分の2くらいで、入口脇に7台の空のワゴン車が並んでいて、香達の乗っていたワゴン車はその仲間になっていた。入り口を背にして右側の壁に1から9まで番号が振られた引き戸がある。大げさで古めかしい冷房機が入り口の真向かいに設置されている。
「閉じ込められちゃったじゃん!」と香が小声で叫ぶ。
「声でけーよ」と俊太が呆れて言う。
「大丈夫だよ、鍵は中からも開くから」
「ここに来たことあるの?」
「当たり前だろ」
 俊太が、1番の引き戸のところへ行った。
「それ何」
「この中に死体が入ってるんだよ」と、俊太は番号1番の棚をがっと引き出した。香は顔を背ける暇もなかった。
 引き戸の先は、ながーい「引き出しベッド」のような棚になっていて、その上には何も乗っていなかった。
「ハズレだ」
 俊太は間髪いれず、隣の番号2番の棚を開ける。けれど、また空だった。
「見てないで、お前も手伝えよ」
「もういいよ。やめようよ」
「お前今更なにいってんだよ」
「だって、なんか呪われそうじゃん」
「はぁ? お前何歳だよ、ばっかじゃねーの」
「やめようよ!」
「意気地なし! 弱虫!」
 俊太の目は淀んでいた。
 香は今、分かった。俊太が誰に似ているのかを。

 南青山のマンションに住んでいた時、隣の部屋で幼児虐待があった。香は自分の目で見たわけではなく、音を聞いただけだけれど、あれは絶対幼児虐待だったと香は思う。その部屋には、おじさんとおばさんと4歳の子が3人で住んでいて、おばさんがおじさんを怒鳴りつけるヒス声で、香はよく夜中に目が覚めた。いつも2時とか3時とかで、4時の時もあった。うるさいというより香は怖かった。声がしたりドスドス音がしたりして、壁の向こうの暴力を香は生々しく感じ取っていたから。暴力を振るっていたのはおばさんの方だった。男前なスミレは夜中に2人を怒鳴りつけにいったことがあるけれど、香はその時眠っていて気がつかなった。
 ある日の夜、お風呂から上がってリビングで宿題をしていたら(香とスミレはよくリビングで一緒に別々の作業をする。たとえば、香は宿題、スミレは仕事)いつの間にか、おばさんがおじさんを怒鳴りつける声がしなくなったことに香は気がついた。「最近、どなり声聞こえないね」と香がスミレに言うと「多分ね、旦那さんが出てったのよ」とスミレは答えた。「そうなんだ」「うん」「でも、あれじゃあ出て行くよね」「でも、旦那さんの方に原因があるのよきっと」「浮気とか?」と香が言うと、スミレは吃驚して言った。「8歳で浮気なんて知ってるの?」「皆、普通に知ってるよ」スミレは笑った。「でもまあ、2人ともいけないよね」「うん」「でもあの子大丈夫かしらね」「あの子?」「息子さん。ちっちゃい子いるでしょ」「ああ」「最近、どんどん可愛げなくなってるでしょ」「そうなの?」「あんた見ない?」「見ないよ」「そう。まあ、時間帯違うもんね。あの子ね、よくうちに来るのよ」
 香は吃驚した。うちにトイレを借りに来るのよ、とスミレは言った。自分ちにトイレがあるのに香の家にやって来てピンポンを押して、おしっこしたい、と言うのだと。それでスミレがトイレを貸してやると、「ドア開けておいて。見てて」と言う。スミレは見てあげていて、たまにおやつをあげるようになったと話した。「キモイ?」とスミレが香に聞く。お母さん、心の中で私に謝ってる、と香は思った。「なんで? きもくないよ」と香は言った。「お母さん、良いことしてると思うよ」
 しばらくして、隣のおばさんは朝7時過ぎにその子を怒鳴りつけるようになった。香がスミレと一緒にご飯を食べていると、「もう! このウスノロ! 何やってんのよ?! 早くしてよ!」と声がする。その声を聞く度に、また始まったと思ったけれど、香もスミレもそのことについて何も口に出さなかった。お母さんはなんでおばさんを怒鳴りつけにいかないんだろう、と思うこともあったけれど、行かない理由も分かる気がして、香はスミレに何も言わなかった。ある月曜日の朝。また怒鳴り声が聞こえてきて、その時の香はとにかく嫌な空気に伝染なんてしてやるものかと思って、リモコンでテレビのチャンネルを変えた。すると、芸人の小島よしおが現れた。小島よしおは「そんなの関係ねえ!」をやっていた。香はすぐに小島よしおの世界に染まって、大笑いした。スミレが小島よしおを見て、一体何がそんなに面白いのかねと言ったけれど、その頃の香には小島よしおはとても面白かった。できたら小島よしおに自分の友達になって欲しいと思っていた。隣も小島よしおの世界の一部になったらいいと思って、香はテレビのボリュームを上げた。香はスミレに怒られた。
 その内に、スミレは「人の目があった方がはかどる」と言いだして、家ではなくスターバックスとかデニーズとかで仕事をするようになった。ある日、香が学校から帰って来て、一人で顔面体操をしていると、ピンポンが鳴った。
 玄関を開けるとその子がいた。確かに可愛げなかった、態度じゃなくて顔が。

 死んだ人は見世物じゃない、と香は言った。
「は? お前が言えるかそれ。お前だって興味津津でついてきただろうが」
「そうだよ」
「だったら同類だろうが」
「私は間違ってた」
 俊太が笑う。
「自分が見世物になる方が全然カッコいいよ」
 俊太が何かを誤魔化すように笑う。かっこ悪い。
 そして香は、何故か泣いてしまった。
 突然、入口の扉が開いた。香は肩もつま先も大腸も全部でビックリした。
 おっさんが入り口に立っていた。

 死体安置所から出てすぐ右に小窓のついた部屋があった。中に入るととても狭い。古ぼけたスチールのキャビネットの上に競馬新聞とボールペンと、まだ開けていない弁当箱とお箸箱があって、キャビネットの前にパイプ椅子がある。壁には鍵棚と黒板が打ちつけてある。黒板には5月と書かれているだけで、スケジュールは真っ白だ。
 おっさんが椅子に座って香と俊太を見上げる。香はおっさんの顔を見られなくて俊太をチラ見した。俊太はおっさんの顔を睨んでいた。香は「俊太すげえ」と思う。だてに通いつめてない。でもこのタイミングで見直したのはやっぱり間違ってるか。と思い直したところで香はまた泣いてしまった。
 おっさんが香と俊太から取り上げた財布の中身を調べている。お目当てのものがなかったのか、おっさんは、「携帯電話出せ」と言って、手を出した。
「親に電話する」
 おっさんがそう言った。香は泣いている自分が嫌だったけれど、どんどん涙があふれてきて息苦しくなってきて、その内、しゃくりあげてしまった。
「お母さんには連絡しないでください。もう絶対しません。お願いです」
 けれど俊太は何も言わない。おっさんは手を出したままで手を引っ込めようとしないし、表情もない。それどころか手を伸ばして香のズボンのポケットから携帯電話を取り出した。香は反抗できなかった。
「もう二度としません。許してください」
 おっさんは俊太のポケットから俊太の携帯電話も取り出した。
「なんで死体を見ようって思った」
 興味本位でやっていいことと悪いことが―、とおっさんが言いかけて、俊太が遮った。
「興味本位じゃない」
「じゃあなにか」
 俊太は答えない。
 じゃあなにか、ともう一度おっさんが尋ねた。俊太が答えた。
「僕は手塚治虫の生まれ変わりなんです。本当の生を描くために本当の死を描かなきゃいけないんです」
 おっさんが溜息をつく。魔法少女まどか☆マギカのまどかママが「話しにならん」って言うみたいだ、と香は思う。言ってるところ見たことないけど、と香は思い付け足す。おっさんが、俊太の携帯電話を操作し始めた。
「マスコミに言うぞ!」
 俊太が言った。は? マスコミ? 俊太を見た後、香はおっさんを見た。おっさんは俊太の携帯の待ち受け画面を見たまま動かない。
「俺はもう何度もここに侵入してんだぞ? 職務怠慢だろ? マスコミから叩かれるぞ!」
 気がつくと俊太はビンタされていた。
 ビンタしたのは、おっさんではなく香で、俊太が香を見てびっくりしている。香も香にびっくりしていた。
 裏切り者、と俊太が香をののしった後、おっさんが俊太の携帯電話をかざして言った。
 なんだこれは?
 俊太は答えない。おっさん、携帯電話、俊太、そして携帯電話の画面、の順番で香はピッピッピッと目を動かした。
 携帯電話の待ち受け画面には、中年の男の寝顔が映っていた。
「寝顔? 誰?」と香が俊太に聞く。俊太が淀んだ目で笑う。おっさんが立ちあがって、俊太を思い切りグーで頭をぶん殴った。香はビックリした。
 俊太が頭を押さえて涙声になって、声なき声で、いってえ、と言う。
「眠ってるんじゃない。死んでるんだ」とおっさんが言った。
 眠ってるんじゃない、死んでるんだ、やっていいことと悪いことがあるだろう。
 またしても俊太は笑う。涙目で笑う。でも泣いていない。
「なんだその目は」
「俺のオヤジだよ」

続く

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