IZURU KUMASAKA

熊坂 出

短編小説「羽ばたくシガイ」  重松清さんからの推薦文はこちら
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羽ばたくシガイ

 病院の駐車場沿いの道は人通りも車通りも少ない。その道から右に路地を折れてちょっと歩くと上り坂になる。その坂道を登って行くと、左手にタンポポがたくさん生えている小さな公園がある。公園の奥にある滑り台で男の子2人と女の子が犬と追いかけっこをして遊んでいる。それ以外は子連れの母親がいるだけだった。3歳くらいの女の子が黄色いタンポポを引っこ抜いては自分の小さな両手に集め、綿毛がついているタンポポを引っこ抜いては母親に手渡している。母親は娘を抱き寄せて、大げさにフーッと吹いて綿毛を飛ばしてみせる。女の子が飛ばされた綿毛を目で追う。あの子はまだ綿毛を飛ばすだけの息を吐けないんだ、と香は気付く。
 公園の真ん中には砂場があって、その砂場の近くにベンチがある。おっさんと香がベンチに座って、俊太は地べたにしゃがみ込んでいる。俊太は地面に指で文字を書いている。てづかおさむし。てづかおさむしの右隣に、龍、と書いている。と、龍の右隣にも、再び龍と書いて、その下にも二つの龍を書いて、龍は合計4つになった。香はおっさんに聞いてみた。
「人間が死ぬことには慣れますか?」
「慣れないよ」
 死体には慣れるけどね、とおっさんが無表情に言った。すると俊太が鼻で笑って言った。
「慣れる人もいるよ」
「他の奴の話なんかしてない。俺は、俺の母ちゃんが死んだら、きっと泣く」
「俺のオカンは泣かなかった」と俊太が言った。香は俊太を見た。
「俺のオカンは、老年化病棟でアルツハイマー病や脳血管性痴呆の患者達を診てる。あの病院で働いてる医者だ」
 香は俊太を見た。―そういうことか。
「お前のお母さんは、おやじさんが死んでも泣かなかったのか?」
「勘違いするなよ。それを恨んでるとかそういう甘ったれじゃない俺は。オカンは俺の前で泣かなかったけど、オカンの悲しみは十分分かってた。伝わったとかじゃない。ただ分かったんだ。オカンがどれだけ悲しんでるか。オカンが俺の前で泣いてはいけないと覚悟して、そうやって生きて行こうとしてることが。おかんは親父が死んだ後すごい忙しくして、オトンのことを振り返ってる暇なんかないくらいに忙しくしたんだって。そしたらいつの間にか立ち直ったんだって」
「偉いじゃねえか」
「だろ。オカンは偉い」
「違うよ。お前がだよ」
 俊太がおっさんを見る。
「その分、お前のお母さんはお前にかまえなかったんだろ? その年で1人で頑張ってんだろ? お前のお母さんがそういう話をお前にするのはお前のことを頼りにしてるからだろ?」
 俊太は目をパチパチと瞬きした。
「お前は甘ったれでもなんでもない」
 俊太はまるで、俺も泣かないって誓ったんだ、そう決めたんだって顔をして口をぎゅっと結んでいる、と香は思う。
「その上でだ。その上でなんで死体なんかに興味を持つんだ」
 俊太は答えない。
 おっさんが待っている。香も待ってみる。
「ただ、俺は」と俊太が言った。
 ただ、俺は。俺は、ただ。なんだか内地のドラマみたいだと香は思った。俊太がとうとう泣き出した。俊太はもう泣くことに反抗しなかった。

「オトンがもう危ないからって親戚のおじさんが夜中、車で練馬の病院に連れて行ってくれたんだ。俺は後部座席に乗ってて、おじさんが運転した。何にもしゃべらなかった。バックミラーに映ったおじさんは無表情だった。車の中の匂いとか自分が着てた服とか全部覚えてる。病院に入ってエレベータに乗って3階のボタンをおじさんが押した。扉が締まるまで時間がかかった。俺はおじさんの背中を見てた。2階まで来た時、俺はおじさんの顔がちょっと見えるところまで前へ出た。おじさんは音もなく泣いてた。その時俺は悟ったんだ。ああ、もう俺はオトンとしゃべることができないんだって。悲しいとかそういうのじゃなかった。後で、それが喪失感っていうんだって知った。エレベータが3階について、外に出たら、すぐ待合スペースがあって、そこにやつれたオカンが座っていた。泣きもせず俺に言った、俊太ごめんね」

 香には想像もつかない。香のお父さんは今も生きてるし、会おうと思えばいつだって会える。香には想像もつかない。なのに、泣いてしまう。
「どんなお父さんだったの?」
「アル中のろくでもない男だった。もうぶたれるのは嫌だ。蹴られるのも本当に嫌だ」
 だけど、続けてこう言った。
「だけど、もっと話がしたかった」

 結局、俊太と香はお咎めなしだった。おっさんが別れ際に、「また来たくなったら来ればいい。でも見に来てる内はお前は何にもなれないぞ、多分」とちょっとお説教っぽいことを言って、香はなんだかとてもがっかりした。でもそれで分かった。おっさんはもしかして俊太のお母さんがこの病院に勤めていることなんてとっくに知っていて、俊太が死体安置所に侵入していることもとっくに知っていて、今日もあえて侵入を許したのかもしれない、と。香の勘はよく外れるけど、きっとそういうことだったんじゃないかと香は今、パソコンを打ちながら思う。

 俊太と香はチャリに乗って識名まで戻る。黒丸宗通りの坂道を登って行き、識名三丁目店のファミリーマートにつながる路地を折れて、ファミリーマートの広い駐車場を左手に通り過ぎて、段々急こう配になる坂道をチャリで登って行く。香も俊太も立ちこぎになって高台まで必死こいて登って行く。ブタクサで埋め尽くされた空き地が右手に見えて来る。その先の左手に理子が住んでるアパートがある。香のお気に入りの場所。見えてきた。

 沖縄のアパートは東京の団地に少し似ていて、東京のアパートよりもずいぶんガンジョウな感じがする、と香は思う。東京の小学校もガンジョウな感じがするけれど、沖縄の小学校はもっともっとガンジョウな感じがする、と香は思う。香は南青山にいた時マンションに住んでいたから、スミレが沖縄のアパートに引っ越すと言った時てっきり狭いところに引っ越すんだとばかり香は思っていたけれど、実際に引っ越して来てみると、広さはほとんど変わらなかった。
 理子のアパートの屋上からは那覇空港に着陸する飛行機がよく見えた。海の上の空が広い。近くの家の様子も丸見えだ。向かいの家の2階でおばさんがテレビを見ている。そういえば南青山では一軒残らず皆カーテンをしてたっけ、と香が思い出していると、そのおばさんが香に気がついて、カーテンを閉めた。
 ああああ。死体見れなかったなあ!
 香は締められたカーテンから俊太に目を移す。俊太が小石を蹴飛ばす。俊太は香に背を向けて那覇空港の方を見ている。
 俊太さ。
 なんだよ。
 ついてこい。

続く

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