IZURU KUMASAKA

熊坂 出

短編小説「神隠しのボレロ」
全5回
  • 第1回
  • 第2回
  • 第3回
  • 第4回
  • 第5回
神隠しのボレロ

 2人は「ガードレール」からクボーうたきまで戻って来た。そしてゲンチャが言った。
「お前の母ちゃん、待ち合わせ場所に行ったんじゃないか?」
 香はそんな事があるはずはないと思いつつ、チャリに跨がった。

 ゲンチャと一緒に超マッハでチャリを飛ばす。
 香はそんな事あるはずないと思っているけれど、いつの間にか、お母さんは絶対にそこにいて、私を待っていて、また怒られる、なんて思ってしまう。
 顔がにやけてしまう。
 あの島のはしっこのところで、お母さんがうんざりした顔で私を待っている。絶対に。うん、絶対に。携帯電話はきっと充電が切れちゃったんだ。けれど、やはりカベールの植物群落にスミレはいなかった。

 携帯電話をかけてもつながらない。時間は11時。ゲンチャが言った。
「港の待合所まで戻ろう。途中、小学校に寄って先生に助け呼ぼう」
「え? だって」
「ハティナリィキィだから呼んだ方がいいかもしれない」
「なにそれ」
「8月は悪い月なんだよ」
「そうなの?」
「あれ? 違ったかな。9月だったかな」
「もう!」
「でもとにかく! なんか用があって知念まで戻ったのかもしれんし」
「それはないよ」
「フェリーのとこ行って、乗客名簿確認させてもらおう」
「だからそれはありえないって」
「なんで分かる?」
「なんでも。だったら絶対連絡くれるから。携帯繋がらないわけない」
「わからんし」
「あのさ、ゲンチャにうちのお母さんの何が分かるの?」
「お前だって大してわからんだろ、自分の母ちゃんのこと」
香はそんなことはないと言いたかったけれど、言い返さなかった。
「もし知ってると思うなら、お前、ゴーマンだよ」

 2人はクボーうたきまで戻った。
 相変わらずスミレのチャリが停まっている。さっきまではチャリが停まっていると香は感じていたけれど、今は何故か、チャリが打ち捨てられているように感じた。あの農道に停まっていたナンバーのない軽自動車みたいに。アザラシの死骸。

 それで、香はずっと遠ざけていた答えを、スミレが神隠しにあった訳を、いなくなってすぐに思い当たっていたことを、はっきりと言葉に描いて、心の中で呟いた。

 あの蜘蛛が怒ってるんだ。

 もうずっと声に出して言いたくて仕方がなかったけれど、スミレの「解釈を与えるのはやめなさい」という言葉がずっと心に残っていて、口に出せずにいた。
 なんとか蜘蛛の復讐説を自分の中から追い出したいのだけれど、どんどんどんどん蜘蛛の復讐説が香の中で大きくなって行く。そしてとうとう香は口に出して言った。
「罰が当たったんだ」
「なんて?」
「バチがあたったんだ。蜘蛛を見た罰だ」
「クモ? クモってなによ」
「なんでもない」
「うわ!」と、ゲンチャが唐突に声を上げた、香の向こうを見て。
「え?」と香はゲンチャの目線を追って振り返る。
「クマだ」と、ゲンチャが呟く。
「は?」
「クマだって」
「え?」
「熊がいた」
「熊?」
 香も振り返る。
 ゲンチャの視線の先を追うけれど、茂みの向こうに海が見えるだけだ。
「リュック持ってた」
「リュック?」
「黒いリュック。青い花みたいなのがついてた」
「青い花?」
「うん」
「それ、お母さんのだ」
 香とゲンチャは顔を見合わせた。
 ゲンチャが走り出す。香も反射的に追いかける。
「でも、熊なんて沖縄にいるわけない!」
「俺も11年間知念に住んでて、初めて見た!」
 ゲンチャは海へと続く西側の茂みへと走り出す。
「ちょっと」
「多分メスだ」
「なんで分かるの?」
「小さかったから。学校で習った」
 香は駆け足に自信があったけれど、ゲンチャは香よりも全然速かった。島草履のくせに速い。ゲンチャはぐんぐんぐんぐん前へ前へ走る。茂みを超え石畳の道に出て石畳の階段を降り、階段は途中で朽ちて壊れていて、それをジャンプして向こうへ渡る。香もそれに続く。どんどん下って行って岩場に出る。香は無我夢中でゲンチャを追う。ゲンチャは岩場から岩場へと飛び移って行き、香が後を追う。思考はなくただ行動があるだけ。香はなぜか熊に追われてるような気持ちになる。振り返れない。怖い。止まれない。今止まったら殺される。ゲンチャと一緒に逃げなくちゃいけない。ゲンチャが岩から滑り落ち、香もまた滑り落ちる。膝を擦りむく。刀のように尖った岩をつかんで、香の右の手のひらが裂けた。香は恐怖を振り払うように振り返った。そこには熊も蜘蛛もいなかった。足元を見ると、ウミケムシが這っていた。思わず足と腰を上げてバランスを崩し、香は岩から落ちた。

 気がつくと香は岸壁に囲まれた岩場にいた。目の前に広がる海は穏やかだけれど、海面は濃い青色で香は本能的に深い海だと感じとった。見上げると、香の身長の5倍は高いところに地上があった。出血がひどく、熱い手のひらを香は見た。左手で押さえる。岩場を登れない、と香は思った。ゲンチャが3m程上にある岩の、そのまた上から香を見下ろしている。ゲンチャはじっと香を見ていたけれど、唐突にジャンプした。ゲンチャが香のすぐ隣に落ちて来る。

 こうして、2人は遭難した。

 ゲンチャが上半身裸になって海に向かって歌う。歌うというか、叫ぶ。ニゲー! ニゲー! カナイ! カナイさーん! 苦い金井さーん!!
 ゲンチャのTシャツは香の手のひらの出血を止める包帯になっていた。

 「お前も歌え」
 と、再び、ゲンチャが言う。そして、香は再び、拒否する。

 香が、歌を敬遠するようになったのは小学校3年生の時から。
 当時通っていた東京の小学校の英語の授業で、好きな英語の歌を教壇の前に立って皆の前で歌うというのがあった。好きな音楽のデータを持って来てそれを先生のパソコンで再生しながら、イヤホンをつけて歌う。生徒達と先生には歌っている生徒の声しか聞こえない。
 音楽の授業だったらまだしも、なんで英語の授業で皆の前で歌わなければいけないのか香は納得がいかなかった。男子の一人が、香と同じ理由で歌うことを拒否した。それで香は心変わりした。拒否しているその男子がなんだかとてもかっこ悪く見えたから。下手糞だけど笑顔で歌っている子の方がかっこよく思えたから。香のヒーローだった小島よしおの「そんなの関係ねえ」という言葉を香はふと思い出し、教壇の前まで歩いて行き、皆の前に立つと、香はスミレがよく口ずさんでいたニーナ・シモンの曲を大きな声で歌った。私には友達もいないし品もないしお金もないし何もないけれど、私にはおっぱいがあるし脳みそもあるし肝臓もあるし笑うことだってできる、みたいな歌詞。誰も香の音痴を笑わなかった。けれど、英語教師が香の表情と歌声を聞いて苦笑した。
 その教師の苦笑を見て以来、香は音楽の授業でも何かしら言い訳をして、歌わなくなってしまった。

 香は歌を手放し、結果として、香も歌に見放された。

「ねえ、ホントに熊なんて見たの?」
「見たよ」
「じゃあ、なんでいないの?」
「知らん。でも確かにいたし」
「後悔してるでしょ?」
「は?」
「カッコつけて余計なお世話焼いて、こんなことに巻き込まれて」
 ゲンチャは何も言わない。
 その時、香の携帯電話が鳴った。

 香が携帯画面を見ると、非通知。
「もしもし」
「もしもし」
 相手は、香の父親だった。香の父親の名前は、威(たける)と言った。

続く

© IZURU KUMASAKA All Rights Reserved.