IZURU KUMASAKA

熊坂 出

短編小説「神隠しのボレロ」 
全5回
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神隠しのボレロ

 夏休みが1年間の長い冬眠を終えて目覚めた7月の末。
 1つ目の事件が起きた。

斎場御嶽せーふぁうたきに行こう」
「なんて?」
「せーふぁうたき。行こう」
 香とスミレは、むつみ橋にあるスタバの窓際の席に腰をおろしていておしゃべりをしている。(スミレは、香の母親です。詳しくは、羽ばたくシガイとさらばアンサツシャを読んでね)
 スミレはアイスコーヒーをテーブルに置いて、鞄の中から一冊の本を取り出す。とある民俗学者が書いた「七つの拝み山」というタイトルの本。
 香が本をパラパラとめくって、せーふぁうたきのページを見つける。香はページを読むというか眺めてみる。ボールペンで文章の横に線が引かれていたり、単語が○で囲われていたり、ページの余白にメモ書きされていたりしていて、まるで小学生の教科書みたいだ。スミレの持っている本は全て同様に汚くて、スミレはよく香に言う。
   借りた本はサッと読んで、自分が読んだ気配を残さない。買った本には自分の気配をなるだけ残して、なるべく読み返して、自分の身体の一部にしなさい、一番いいのは気に入ったページを食べちゃうこと。

「せーふぁうたきは確かに観光地だけど、その前に御嶽なの。うたき。分かる? 神様が祭られてる聖なる地」

 香は適当に相づちを打って、窓の向こうの国際通りこくさいどおりを眺める。歩道を大勢の観光客が歩いている。あと1週間もすれば、国際通りを大渋滞している車たちはエイサーを踊る大勢の人達にとって変わる。エイサーとは沖縄の盆踊りのこと。香がかつて住んでいた南青山にも盆踊りはあったけれど、香にとってみたらそれは青山墓地に咲く桜のように淡い白ピンクで、沖縄のエイサーは真っ赤だった。香のクラスの男子達は皆、エイサーを踊る青年達を尊敬していた。

 次の日、香は朝早く起きて、スミレと一緒にせーふぁうたきへと繰り出した。

 香とスミレが住んでいるおもろまちのアパートから、知念ちねんの丘陵地帯にあるせーふぁうたきの駐車場まで、スミレの愛車のピノで大体1時間位かかった。9時きっかりにせーふぁうたきの中に入ると、2人はすぐ二手に別れた。スミレは好きなものに好きなだけ時間をかけて眺めるので、香は飽きてしまう。だから、美術館に行ったり博物館に行ったりする時、2人は必ず二手に別れる。

 せーふぁうたきは、上から見るとまるで巨大なTの字の形をした森。
 Tの字の下の端が入り口で、上の左右の端にはそれぞれ「ゆいんち」という所と「さんぐーい」という所がある。「ゆいんち」は、昔、海の幸や山の幸が国内外から集まって来た場所で、「さんぐーい」は神様が降りて来た場所。香はまずTの字の左上端にある「ゆいんち」に向かって歩いた。
 道すがら、1億年前から自生してるんじゃないかと思うような大きな葉っぱのクワズイモやオオイワヒトデが自生していて、「食べられちゃうよ!」「食虫植物じゃねえの!」等と内地から来た子供達がいちいち声を上げていたけれど、那覇に住んで3年目を迎える香はそういうのを散々見てきているので、ケッと思うだけだった。

 それで魔が差した。

 最初の目的地「ゆいんち」にたどり着いた香は、「ゆいんち」にある大きな岩壁の裏側を見てみたいと、思ったのだ。

 立ち入り禁止の札は出ていなかったけれど、本当はいけない事だと香はなんとなく分かっていた。でも香の脳は好奇心に絡めとられていて、身体は脳の言いなりになるしかなかった。香が辺りを見回すと、こちらを見ている人は誰もいない。香は岩壁の脇に生えている巨大なシダをかき分け、岩壁の裏へと回り込んで行った。ジャングルの中にそびえ立つその巨大な岩の裏側に、巨大な蜘蛛がいた。

 直径3m程の巨大な蜘蛛。

 大岩の裏側の中心に、ガジュマルの枝なのか根っこなのか葉っぱなのか、とにかく得体の知れないものが密集して巨大な蜘蛛の胴体のようなものを形作っていて、そこから八方に長い枝の足が生えている。それが香にはものすごく大きな蜘蛛に見えたのだ。

 見てはいけないものを見てしまった、と香は直感した。多分、おばあさんが夜、鶴を見てしまった時の気持ちはこんな気持ちだ、と香は思った。

 香とスミレは、Tの字の右上端にある「さんぐーい」で合流した。「さんぐーい」の先に、海に浮かぶ久高島くだかじまが見える場所がある。久しく高い島と書いて、くだかじま。久高島。生い茂った木々の葉っぱがまるで望遠鏡の筒のように人々から広い海を円形に切り取り、海を小さく丸く見せる。そして、その小さく丸い海に久高島がポツンと浮かんでいる。久高島は細長くて、そしてここから遠い。

「久高島に行ってみようか」
「うん」
「神様が住んでるんだって」
「うん」
 と香は後ろめたくなって下を見た。

 ゴミが落ちている。ガムの銀色の包み紙。
 岩の裏側を見た罪悪を消したかったのか、香はそれを拾い上げてポケットに入れた。

「沖縄の島々を作った神様、アマミキヨとシネリキヨがニライカナイを出て最初に着いたのが、久高島なのよ」

 久高島からの帰り道、ピノの助手席で、香は銀紙の裏に「罰」とペンで書いた。罰、罰、罰、ばつ、×、バツ、とたくさんの「罰」を銀紙の裏面にぎっしりと書いた。
 せーふぁうたきで見た巨大な蜘蛛のことをスミレに話す。香は、ばちが当たる罰が当たると言って、スミレを閉口させる。

「絶対、罰当たるよね?」
「だからと言って、今後、あなたの身に不幸が起こったとしても、その蜘蛛を見てしまったことと結びつけて考えてはダメよ」
「なんで?」
「事実に解釈を与えると、物の見方がせこくなるから」

 香は帰って来るや否や小学校の図書室へ行き、せーふぁうたきについて色々調べた。観光客のマナーがあまりに悪いので、男子禁制になるかもしれないこと。自分が入って行ったところは立ち入り禁止ではなかったこと。でも、それでも悪いことをしたという思いが強くなった。けれども、どう償えばいいか分からない。帰りしなに図書室のトイレの個室に入る時、ごめんなさい、と心の中で呟いた。

 家に帰って来て晩ごはんを食べる前にも、ごめんなさい、と心の中で呟いてみた。そしてお風呂から上がって夜寝る前にも、ごめんなさい、と声に出して呟いてみた。香は自分がバカみたいで思わず笑ってしまった。それでまた悪い事をしたと思って香はしょんぼりした。

 布団の中で、香はあの蜘蛛のこと考えてみる。

  あの蜘蛛は一体なんなんだったんだろう。

 と、その時、香は思わず、あっと声を上げた。
 せーふぁうたきで拾った銀紙をポケットに入れたまま洗濯に出しちゃった…。またお母さんに怒られる!

 けれども、「罰」で埋め尽くした銀紙は何故か香のポケットから綺麗さっぱり無くなっていて、スミレに怒られずにすんだ。スミレに聞いても知らないと言う。もしかしたら、ゴミを拾ったから斎場御嶽の神様が私から罰を取り去ってくれたのかもしれない、と香は都合良く解釈を与えた。

 この漠然とした一日の出来事全体が  
 事件らしい事件は何もないけれど、とにかく、これが、香の夏休みに起きた一つ目の事件。二つ目の事件はもっと分かり易い事件らしい事件で、一言で説明できる程にシンプルなエピソードで、マリリンモンローが死んだ8月5日に起こった。

 久高島でスミレが神隠しにあったのだ。

続く

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